映画「この世界に残されて」感想
先週観た映画「この世界に残されて」が、圧倒的2020年優勝映画だった。
ナチスによるホロコーストを生き延びた16歳のクララと42歳のアルド。
家族を喪い傷ついた彼らは、寄り添うことで人生を取り戻していくが、ソ連の弾圧によって、再び二人の運命は時代に翻弄されてゆく――。
ナチス支配の後にソ連支配という東欧が大変な時代の、親も妹も殺されたクララと、妻と子どもを亡くしたアルドの、家族愛や恋愛という言葉に収束できない感情を描いた映画作品(とわたしは見た)。
大仰な演出はないけれど、観ているこっちはナチス支配後のハンガリーがどうなっていくかを知っているだけに、どうということもない場面で涙が出そうでしかたなかった。
静かで、悲しくて、美しい映画。
印象に残ったシーンと考察など
メモを取りながら観たわけではないので、台詞などちょっと違うかもです。
喫茶店で「偽物は嫌です」と言うシーン
アルドとクララが喫茶店でコーヒーを注文するところ。
「チコリのコーヒーもあります」という給仕に反応して、クララが「偽物は嫌です」と言う。
戦時下では庶民は代用コーヒーを飲んでいたし、ユダヤ人強制収容所では「茶色いコーヒーのような液体」の偽物が出されていた。
「もうたくさんだというくらい味わった偽物のコーヒーは嫌で、偽物のコーヒーから喚起される過去が嫌」というのが、クララの「偽物は嫌です」に含まれているんだろうな。
このシーン、プチケーキを頬張るクララがとても可愛い。
ナチスに取り上げられていた甘いお菓子を取り戻すかのような勢いもある。
クララ役のアビゲール・セーケさん、すごい。
アルドのアルバムを見るシーン
アルドのアルバムを見て、彼の家族がホロコーストで亡くなったことを覚って泣くクララ。
ここの抑制の効いた泣き方が素晴らしい。
大袈裟に号泣するのではない泣き方。
一瞬ちょっとだけ顔が上を向くのだけど、それが本当に美しい。
クララ役のアビゲール・セーケさん、すごい。(二度目)
アルドの友人が忠告に来たシーン
アルドとクララがいかがわしい関係なのではないかと勘違いされたかで、共産党に入党したアルドの友人が忠告に来る。
友人は、党からアルドの様子を探れと命令を受けたという。
たぶんクララの着替えを鏡越しに見てしまったおっさんが党に密告したのだ。
友人はアルドに問う。
「家族を守るために入党した、お前はどうなんだ?」
わたしはこの、友人の「家族を守るため」という台詞がキィだと思った。
アルドとクララは、最初は、恋愛感情ではなく家族愛から、家族を求める気持ちから互いを受けいれていったんではないか。
一緒に暮らすうちに恋愛的な感情を持つようになっても、その前にアルドとクララは家族になっていたから、恋愛へ踏み込まなかったのではないか。
ホロコーストで、彼らは家族を奪われた。
これがとても大きいと思う。
アルドは忠告を受けて、再婚相手を探す。
これ以上、家族を失わないために。
愛情の対象を失わないために。
三年後のホームパーティーのシーン
アルドにはエルジという再婚相手が、クララにはペペという結婚相手がいる。
この世界で生きのびるために、アルドはクララではない相手を、クララはアルドではない相手を選んだ。
だけどアルドは、たぶんまだ消化できていない。
クララと対峙したあとの、目の動き。
「ここにいない人たちのために」とみんなで乾杯をするときに、アルドだけしていない。
彼はまだこの現実を飲み下せていないのだ。
クララを手放さざるを得なかった現実を。
あるいは「ここにいない」妻と子どもたちがいなくなった現実を。
バスに乗ったクララのシーン
ラストはバスに乗ったクララのシーン。
窓から流れる景色を眺めているクララ。
バスは止まってくれない時代と社会であり、クララはその流れに巻き込まれるしかない。
窓の外にあるのは何だろう。
ホロコーストがなくて家族みんな幸せに暮らしている世界だろうか。
クララの唇が二度、きゅ、と力む。
彼女は残された世界で生きていく。
ホロコーストのあと
ナチスのユダヤ人虐殺を生き延びた人たちが、その後は人権を取り戻して幸せに暮らしたかというと、そんなことはない。
ユダヤ人差別はなくならなかったし、ホロコーストがあったという事実は肉体と精神から消えることはない。
ソ連の支配に対してハンガリー国民が蜂起したハンガリー動乱では、市民が殺され難民も出た。
ペレストロイカを経て民主国家になったのは三十年くらい前のこと。
ホロコーストを生き延びた「残された者」は、そういう社会をまた生き延びなければならなかったのだ。