映画『エリザベート1878』――彼女は何も持たずに死んだ
原題は「Corsage」。
オーストリア・ルクセンブルク・ドイツ・フランスの合作で、日本はこの8月25日から公開です。
ハプスブルク帝国が最後の輝きを放っていた19世紀末、「シシィ」の愛称で親しまれ、ヨーロッパ宮廷一の美貌と謳われたオーストリア皇妃エリザベート。1877年のクリスマス・イヴに40歳の誕生日を迎えた彼女は、コルセットをきつく締め、世間のイメージを維持するために奮闘するも、厳格で形式的な公務にますます窮屈さを覚えていく。人生に対する情熱や知識への渇望、若き日々のような刺激を求めて、イングランドやバイエルンを旅し、かつての恋人や古い友人を訪ねる中、誇張された自身のイメージに反抗し、プライドを取り戻すために思いついたある計画とは——。
日本でも宝塚歌劇団、東宝ミュージカルの大人気演目の主人公として広く親しまれているエリザベートの40歳になった1年間に光を当てた本作は、史実に捉われない大胆かつ斬新な美術と音楽、自由奔放な演出で、そんな伝説的皇妃のイメージを大きく覆し、「若さ」「美しさ」という基準によってのみ存在価値を測られてきた彼女の素顔を浮き彫りにする 意欲作である。
わたしの感想と、解釈と、ここがおもしろかったというところを書きます。
ネタバレめっちゃします。
見るのが楽しい精神病院慰問のシーン
残酷な少女(40歳)
エリザベートが精神病院に慰問するシーン1回目。
「前に来たとき私のことを『美しい』と言ってくれたわね」と、ある男性の患者にデメルのすみれの砂糖漬けを施す。
「妖精さんみたい」と自分を讃えた女性患者にすみれの砂糖漬けを渡す。
お付きの人の持っているカゴには同じお菓子がたくさん入ってるのに、渡してあげるのはその二人にだけ。
自分を褒めてくれた人にしか渡さない。
なんという傲慢!
そしてなんと素直なんだろうか。
自分を認めてくれた人にしか渡さないって、慈善活動じゃない。
エリザベートが対価を得る、売り買いだ。
エリザベートの投影
精神病院の慰問シーン2回目。
温浴療法で震える女性患者たちのことを医師が説明してくれる。
「この娘は男狂いで」
「この女は子供を一人亡くしていて、他に三人もいるのに慰められない」
エリザベートは旅行先で男といい雰囲気になったりもしたし、長女を亡くしている。
彼女が見舞った女性らは、エリザベートのあったかもしれない姿。
「何もない私」になりたかったエリザベート
エリザベートはお付きの女性マリー・フェシュテティチが結婚しようとしたとき、認めなかった。
「素の私を愛してくれているのはあなただけ」(うろ覚え)とエリザベートはマリーを傍に置きたい理由を言っていたけど、これ、訳が「素の私」ではなく「何もない私」のほうがいいなあと思った。
このセリフが来るまでにわたしの中で、「エリザベートは何も持ちたくない女性」のイメージができていたから。
エリザベートは皇后ではない自分を見てほしかった。
世間のイメージの通りの皇后ではなく、自分を縛るコルセットを脱いだ、シシィ。
コルセットをしていない、冠を被っていない、皇后でない、馬で駆けるのが好きで、新たな発明品の映写機に興味を持ち、フェンシングで皇帝から一本取った、シシィ。
そんなシシィを愛してくれたのがマリーだったから、マリーを手放せなかった。
「その人」という幻想
結婚させなかったマリーを替え玉にするエリザベート。
替え玉が出た式典を見た娘ヴァレリーは、わざわざ絵を描いて「威厳があってよかった」と言いにくる。
そう、エリザベートのドレスを着て皇后に見えれば、それが実はエリザベートでなくともよい。
エリザベート自身が何かを持っているのではなくて、エリザベートの外側の物が彼女を皇后エリザベートとして成り立たせている。
傲慢で、潔癖で
マリーにダイエットさせ、自分と同じ刺青をさせ、エリザベートは着々と身代わりの準備をする。
自分の持つ世俗的なもの全てをマリーに押しつけて、彼女は自由になる。
船の舳先からふわりと海に飛び込む場面は、美しい。
子どもと大人をどう定義するかにもよるけれど、わたしはエリザベートが子どものまま死んだと思った。
皇后にもならず、母親にもならず、誰かの恋人にもならず、何者にもならないまま。
肉体を持って生きるということは何者かであることだと最近のわたしは考えていて、わたしも何者にもなりたくないと思っていて、だからわたしのできていない選択をしたエリザベートが羨ましく、ずるいと思う。
40歳までその潔癖さを維持できたのもたぶん、彼女が平民ではなく皇族でわりと優雅に暮らせていたからという理由があって、こう、言い方が悪いほうの「貴族」なんだよなあ。
いやもう環境がどうこうじゃなく、もしかしたらこの人はどんな身分に生まれていても同じように生きたのかもしれないけど。
刺されるまでの贖罪
エリザベートの身代わりになったマリーはこの後20年間、刺されて死ぬまで、エリザベートとして生きていかなければならないわけだが、エリザベートは「あなたの献身に考えていることがある」みたいなこと言ってこの身代わりを仕立てた。
エリザベートにとって、マリーにとって、これは褒美になり得たんだろうかってところは疑問というか、マリーは心酔してる人間に近づく、自分がそうなる、という陶酔があったとも考えられるけど、わたしはエリザベートの自死を認める贖罪としてその役割を引き継ぐ、という気持ちのほうが強かったんじゃないかなと思う。
そうあってほしいと思う。
エリザベートの真性は彼女だけのものだから、彼女以外が彼女にはなり得ないから。
わたしは生きているので
肉体から離れた精神は、生きていたころのままではいられない。
何者になることも拒んだエリザベートは、自由になったのだろうか。
映画「デリシュ!」――人生の革命の物語
観てからけっこう経ってるんだけど、ちらっと聞こえてきたテレビで話されてた感想(「スカッとする復讐でしたね」)がわたしのものとあまりに違ったので、わたしの感想も書いておく価値があるかもしれないと思って、書く。
これは復讐ではなく、一人の料理人の「人生の革命の物語」だ。
ネタバレめっちゃあり。記憶が薄れてるところも多分けっこうある。
- 公式HPよりあらすじ
- 見どころ1…貴族のお食事風景
- 見どころ2…ルイーズの正体
- 見どころ3…ひっちゃかめっちゃか迷惑公爵
- 見どころ4…復讐ではない、これは意志表示だ
- 見どころ5…ちゃっかり執事
- 全体の感想
公式HPよりあらすじ
1789年、革命直前のフランス。誇り高い宮廷料理人のマンスロンは、自慢の創作料理「デリシュ」にジャガイモを使ったことが貴族たちの反感を買い、主人である傲慢な公爵に解任され、息子と共に実家に戻ることに。もう料理はしないと決めたが、ある日彼の側で料理を学びたいという女性ルイーズが訪ねてくる。はじめは不審がっていたマンスロンだったが、彼女の真っ直ぐな想いに触れるうちに料理への情熱を取り戻し、ついにふたりは世界で初めて一般人のために開かれたレストランを営むことになる。店はたちまち評判となり、公爵にその存在を知られてしまう…。
「革命直前のフランス」ながら、舞台はパリから遠い公爵領。
バスティーユ監獄に襲撃にいく雄々しい民衆とかは映りません。
なので、華やかな革命シーンを期待して観る映画ではない。
田舎の宿場で一人の料理人に起こる、「静かな人生の革命」の話。
見どころ1…貴族のお食事風景
冒頭のお貴族様方のお食事シーン、公爵と招待客の貴族が、最初は主人公マンスロンの料理を褒める。
なんかエスプリが効いた褒め方してた。
だけど直後、聖職者のおっさんが食材がジャガイモとトリュフだと聞いた途端、「それらは土の中になるもの!つまり豚の食べるものだ!」と主人公マンスロンを罵倒する(ちなジャガイモをよく食べるドイツにも悪態吐いてた)。
これに乗っかる、さっきまで褒めてた貴族の方々。手の平くるんくるん。
なんかエスプリの効いた罵倒がこれ下品なことよ。
見どころ2…ルイーズの正体
公爵の城を追い出されて故郷で宿場を営むマンスロンのところに現れたルイーズ。
貴族のところでゼリー(ジャムだっけ?)を作っていたと言うが、手の荒れてなさから「娼婦じゃね?」とマンスロンに迫られる。
ルイーズのことを娼婦だと思いこんだまま続く宿場の日常。
公爵がパリからの帰りにマンスロンのところに食事しに寄るぞって言ってきて、ルイーズが料理になんか仕込んだような、瓶を隠すような動きをする。←ここでルイーズ何者!?ってなる。
ところが約束をすっぽかす最低な公爵。何だよあいつって空気の中、出来上がっていた料理を食べようとしたマンスロンの息子の手を弾くルイーズさん。
地面に落ちた料理を食べた鳥がお亡くなりに。
実はルイーズ、公爵に嵌められ殺された夫の復讐を誓う未亡人だったのだ!
見どころ3…ひっちゃかめっちゃか迷惑公爵
貴族夫人だったルイーズの行き届いたサービスで繁盛してたマンスロンの宿場。
公爵のお城で出してた料理を庶民にゆっくり味わってもらう初期レストランは、ルイーズがいなくなってどんどんお客が減っていく。
マンスロンまじお前料理しかできねーのな……。
って時に、またも公爵から「お前んとこでパーティーするからよろ!」との通達が。
前回のこともあって公爵に腹が立ってたマンスロンは、修道院に入っていたルイーズを迎えにいく。
このあたりまでは「一緒に復讐しようぜYeah!」って感じなのかなと思ってた。
公爵家から調度や支度金まで届いて、今度こそは公爵ちゃんと来るんやろな、って雰囲気。
だが今度は!「一週間早く行くからよろ!」との連絡が。ふざけんな公爵。
やってやんぜと急ピッチで準備する中、公爵が来る前日。マンスロンが故郷に戻ってきてから一緒に暮らしてたおじいさんが酒樽の下敷きになって死亡。泣いた。
悲しみを隠して料理に戻るマンスロンに腹を立てる息子。
親子喧嘩からのガチボヤ案件勃発。
マンスロンの手が焼けただれ、これでは料理が出来ない。そこでルイーズが代わりにやることに。
何とか全ての準備が整った。あとは公爵を待つだけだ。待つだけ……って来ないんかーい!!!おんどれ公爵ー!!!
こっちはおじいちゃん死んでんねんぞ!!!
見どころ4…復讐ではない、これは意志表示だ
マンスロンは公爵に面談を求め、公爵をレストランに招待することに成功。
そもそもマンスロンがいなくなってから食事が楽しくなくなっていた公爵、自業自得だし絶許。
さあここでやっと毒でも入れて復讐か!?と思いきや。
公爵は自分と愛妾だけがマンスロンのところで食事するのだとやってきたのに、何か店の中にどんどこ平民が入ってくる。
「あれが公爵よ」「案外小さいのね」なんて楽しそうに喋っている平民たち。「案外小さいのね」ってちょっとこう、色々な意味よな。
ここで登場、ルイーズ。
過去に自分が口説いてフラれて腹いせにその夫を殺した覚えのある公爵、ひえっとなる。
ルイーズ、ここで公爵のカツラをズラす! 権力の象徴のカツラを!
平民と同じ空間で食事させられることに我慢ならなくて、さらにカツラずらされて飛び出していく公爵。
ルイーズとマンスロンの復讐は、公爵を殺すことではなくなっていた。
彼らが「こうしたい」という空間を実現し、見せつけること。
貴族と平民が隣同士のテーブルに座って食事をする空間の実現。
これは復讐ではなくて、平民でかつ公爵と繋がりのある彼らが出来得た、意志表示だ。
これが、パリではなく田舎のフランス革命なのだ。
貴族の城を追い出されたマンスロンのたどり着いた、彼の人生の革命なのだ。
見どころ5…ちゃっかり執事
マンスロンに対してずっと偉ぶっていた執事。
公爵が逃げ帰ったあと、この執事、ちゃっかりカツラ脱いでレストランの平民のお客の接客をし始める。
革命でそれまでの上流の職を追われてもそれなりに楽しく生きていくタイプの人間ですわ、これ。
全体の感想
フランス革命で城に勤めていた料理人が町に下りて、生活のためにその料理を振る舞うレストランやカフェを作った、というのは知っていた。
その中にいた一人の料理人が成したかもしれないことを描いたこの映画、派手ではないけど丁寧でちょっとサスペンスで、わたしは、この映画のテーマを「復讐じゃないよ意志表示だよ、その意志を持つことになったマンスロンの人生の革命の話だよ」って読み取りました。
映画「復讐者たち」――善悪は存在するのか
これ邦題がわたしにあんまりしっくり来なくて、原題の「PLAN A」そのままでいいのではと思う。
1945年、敗戦直後のドイツ。ホロコーストを生き延びたユダヤ人男性のマックスが難民キャンプに流れ着き、強制収容所で離ればなれになった妻子がナチスに殺された事実を知る。絶望のどん底に突き落とされたマックスは復讐心を煮えたぎらせ、ナチスの残党を密かに処刑しているユダヤ旅団の兵士ミハイルと行動を共にすることに。そんなマックスの前に現れた別のユダヤ人組織ナカムは、ユダヤ旅団よりもはるかに過激な報復活動を行っていた。ナカムを危険視する恩人のミハイルに協力する形でナカムの隠れ家に潜入したマックスは、彼らが準備を進める“プランA”という復讐計画の全容を突き止める。それはドイツの民間人600万人を標的にした恐るべき大量虐殺計画だった……。
以下ネタバレあり。
ドイツが降伏してユダヤ人が人権を取り戻したか、失ったものを取り返せたか、というと、違う。
冒頭シーンの前提
この映画に出てくるマックス家族は、知人に密告され、強制収容所に連れていかれた。
マックスの家には密告した男の家族が住み、戦後、ホロコーストを生き延びたマックスが家に戻ると、殴られ追い返される。
当時のドイツでは、強制連行されたユダヤ人の家財は、それまでよき隣人であったはずのドイツ人が我が物としていった。
冒頭のシーンは、戦後になってもユダヤ人のものを返さなかった様子が描かれている。
「プランA」とマックスの家の台所のシーン
「プランA」は第二次大戦後、ホロコーストで殺された600万人のユダヤ人の仇に、ドイツ人600万人を殺そうとした計画である。
この映画では、戦後の復興を急ぐドイツ国内の主要都市の水道水にナカムが毒薬を混ぜ、ドイツの一般市民を殺そうとしていた。
映画ラストに、もし「プランA」が成功していたらというifを描写した、道に死に絶えたドイツ人たち老若男女の亡骸がたくさん転がっている、というシーンがある。
水道から出る水に毒を混ぜることは、そういう結末を意味する。
さて、水道。
アヴァンタイトルのあと、本編ファーストカットかな、マックスのものだった家の台所で、ドイツ人の奥さんが料理をしているところ。
水道の蛇口がすごく綺麗にピント合わせられてるんですよね。
「これがこの映画のポイントだぞー」とばかりに。
ここ好きです。
あと、この台所で料理しているのが、家庭的で良いように見える。
ユダヤ人が奪われた家の台所が、収奪者の家庭のあたたかな一部になっている。
とても怖い。
復讐の戦略
この「プランA」が成功していたら、ユダヤ人のイメージは「ホロコーストの犠牲者」から違ったものになっていただろうか。
「プランA」を進めようとするナカムを止めようとしているのは、ユダヤ旅団に所属していたシオニストのミハイル。
そもそもホロコーストでユダヤ人が標的になったとき、ユダヤの民族国家がなかったから、ユダヤ人の権利が守れなかった。
ユダヤ人の権利を守るために国を作らなければならない。
ユダヤ人国家建国のためには、ユダヤ人が悲劇的な犠牲者であるイメージのままであることが有利に働く。
権利が守られる国でたくさんの子孫を残すことが、ユダヤ人絶滅を掲げたナチスに対する復讐となる。
ユダヤ人組織ナカムは、奪われたものと同じものを奪う復讐をしようとする。
目には目を、歯には歯を、600万人の命には600万人の命を。
ナチス政権化でドイツ国民は、ユダヤ人がどんどんいなくなっていくことを知っていたし、ユダヤ人への差別感情を隠していなかった。
ナカムにとってはドイツ国民すべてが、ユダヤ人の悲劇の加害者だった。
ミハイルはパレスチナにいて、直接ホロコーストを見ていたわけではない。
ナカムのメンバーは、目の前で大事な人を連れ去られ、殺された人たちだ。
これからのユダヤ人の権利を守りたいミハイルと、ドイツ人を許せないナカム。
ユダヤ人国家建国もドイツの民間人殺害も、 復讐となる。
マックスはどちらを選ぶのか、というのがこの映画のストーリー軸かな。
生き残ることは善か悪か
妻子を失ったマックスは、強制収容所でカナダ係をしていた。
連行されたユダヤ人の荷物を集め、倉庫にまとめる仕事である。
持ち主のいなくなった荷物から、命を繋ぐのに必要な物資をこっそり盗むことができるから、収容者の中でも生存率は高くなる。
おそらくマックスはそうやって、同胞のものを奪って生存した。
個人が生き延びることは、何より優先されることだとわたしは思ってる。
でも、そうやって生き延びることは、善いことだろうか。
明日は自分がガス室行きの列に加わっているかもしれない極限状態で、心を殺さざるを得なくて、そうやってしか生き残ることができなかった人に、「それは善いことでしたよ」「それは悪いことでしたよ」なんて、言えるわけがない。
そして、マックスは、生き延びたあとも自分がやってきたことを考えつづけることになる。
他人からすると「生きていて良かったね」と言ってしまえるかもしれないけど、それはその人にとって「善いこと」なのかはわからない。
ここにおいて善悪という価値観が意味をなさなくなる。
映画「復讐者たち」を観たあと
自分はどう生きていきたいか、生きていきたいと思ったやり方で生きていけるか。
サスペンス仕立てに作られているけど、時代とか社会とか環境とかに巻き込まれながら「わたし」はどう生きていきたいか、生きていけるのか、を考えさせる映画でした。
わたしは冒頭の台所のシーンだったりの日常的なところがおもしろくて、好きだなあと思いました。
人間はこわいよ。
映画「DAU.ナターシャ」感想――人間はそこにいるだけで、誰かの悪になっているかもしれない
「生きているだけで悪になるかもしれない」という感想を持った映画、「DAU.ナターシャ」について。
オーディション人数39.2万人、衣装4万着、欧州最大1万2千平米のセット、主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年……
「ソ連全体主義」の社会を完全再現した狂気のプロジェクト !1952年。ソ連の某地にある秘密研究所。
その施設では多くの科学者たちが軍事的な研究を続けていた。
施設に併設された食堂で働くウェイトレスのナターシャはある日、研究所に滞在していたフランス人科学者と肉体関係を結ぶ。言葉も通じないが、惹かれ合う2人。しかし、そこには当局からの厳しい監視の目が光っていた。
ストーリーらしいストーリーを掴みづらいから、観る人を選ぶ。
エンタメ系に慣れてる人だとたぶん観づらい。
人間はそこにいるだけで、誰かの悪になっているかもしれない
ナチ体制下のドイツ国民も、あるいは大東亜戦争時の日本国民も、ひとりひとりを見ればただ一生懸命に生きた人間ではなかったか。
ユダヤ人を密告しなければ、大本営発表を信じていなければ、そうしなければ生きられなかった時代があったのだと、わたしは思う。
1952年、スターリン体制下のソ連がそうだったことを、「DAU.ナターシャ」は見せてくれる。
偶然そこに生きていただけで
舞台は1952年、ソ連の秘密研究所の周辺。
主人公のナターシャは秘密研究所の食堂のウエイトレス。
ある晩のパーティーの後、ナターシャはフランス人研究者とベッドインしてしまう。
これが原因でナターシャは、ソビエト国家保安委員会のアジッポに連行され、拷問を受ける。
この拷問がまた、台本がないのによくこんな拷問思いつくな? というようなものなのだけど、「人間がその環境に置かれたらこういうことが出来るんだ」という証左のようでもあり、アジッポもその時代その社会の中で自分の役割を果たして、そうしないと生きていけなかったのかもしれない。
観てから数か月経って
ここまで書いて、この記事のことを忘れていた。
でもこの映画に関して書きたいことは書いたはず。
その人がどういう人間かって、資質にもよるし環境にもよるし、その時々の気分にもよるし、けっこう可変的なもので、素晴らしいときもあるし愚かなときもある。
自分があの時代のあの社会に生まれていたら、と想像することも多いけど、その時代その社会にのまれて、生きていくためにその時代・社会に適応しようとするだろうなと思う。
今のわたしは日本にいてユニクロとかイオンとかで安いTシャツを買ったりするわけだけど、それも適正な価格で買っているのかというと……。
もしかしたらカンボジアやインドネシアやベトナム、もしくはウィグルから搾取しているかもしれない。
わたしが生きて消費していることが誰かの不幸につながっているかもしれない。
そう考えて、人間でいることが嫌になったりする。
「DAU.ナターシャ」は、可変的な人間の愚かな部分と哀しさを見せてくれる映画でした。
映画「この世界に残されて」感想
先週観た映画「この世界に残されて」が、圧倒的2020年優勝映画だった。
ナチスによるホロコーストを生き延びた16歳のクララと42歳のアルド。
家族を喪い傷ついた彼らは、寄り添うことで人生を取り戻していくが、ソ連の弾圧によって、再び二人の運命は時代に翻弄されてゆく――。
ナチス支配の後にソ連支配という東欧が大変な時代の、親も妹も殺されたクララと、妻と子どもを亡くしたアルドの、家族愛や恋愛という言葉に収束できない感情を描いた映画作品(とわたしは見た)。
大仰な演出はないけれど、観ているこっちはナチス支配後のハンガリーがどうなっていくかを知っているだけに、どうということもない場面で涙が出そうでしかたなかった。
静かで、悲しくて、美しい映画。
印象に残ったシーンと考察など
メモを取りながら観たわけではないので、台詞などちょっと違うかもです。
喫茶店で「偽物は嫌です」と言うシーン
アルドとクララが喫茶店でコーヒーを注文するところ。
「チコリのコーヒーもあります」という給仕に反応して、クララが「偽物は嫌です」と言う。
戦時下では庶民は代用コーヒーを飲んでいたし、ユダヤ人強制収容所では「茶色いコーヒーのような液体」の偽物が出されていた。
「もうたくさんだというくらい味わった偽物のコーヒーは嫌で、偽物のコーヒーから喚起される過去が嫌」というのが、クララの「偽物は嫌です」に含まれているんだろうな。
このシーン、プチケーキを頬張るクララがとても可愛い。
ナチスに取り上げられていた甘いお菓子を取り戻すかのような勢いもある。
クララ役のアビゲール・セーケさん、すごい。
アルドのアルバムを見るシーン
アルドのアルバムを見て、彼の家族がホロコーストで亡くなったことを覚って泣くクララ。
ここの抑制の効いた泣き方が素晴らしい。
大袈裟に号泣するのではない泣き方。
一瞬ちょっとだけ顔が上を向くのだけど、それが本当に美しい。
クララ役のアビゲール・セーケさん、すごい。(二度目)
アルドの友人が忠告に来たシーン
アルドとクララがいかがわしい関係なのではないかと勘違いされたかで、共産党に入党したアルドの友人が忠告に来る。
友人は、党からアルドの様子を探れと命令を受けたという。
たぶんクララの着替えを鏡越しに見てしまったおっさんが党に密告したのだ。
友人はアルドに問う。
「家族を守るために入党した、お前はどうなんだ?」
わたしはこの、友人の「家族を守るため」という台詞がキィだと思った。
アルドとクララは、最初は、恋愛感情ではなく家族愛から、家族を求める気持ちから互いを受けいれていったんではないか。
一緒に暮らすうちに恋愛的な感情を持つようになっても、その前にアルドとクララは家族になっていたから、恋愛へ踏み込まなかったのではないか。
ホロコーストで、彼らは家族を奪われた。
これがとても大きいと思う。
アルドは忠告を受けて、再婚相手を探す。
これ以上、家族を失わないために。
愛情の対象を失わないために。
三年後のホームパーティーのシーン
アルドにはエルジという再婚相手が、クララにはペペという結婚相手がいる。
この世界で生きのびるために、アルドはクララではない相手を、クララはアルドではない相手を選んだ。
だけどアルドは、たぶんまだ消化できていない。
クララと対峙したあとの、目の動き。
「ここにいない人たちのために」とみんなで乾杯をするときに、アルドだけしていない。
彼はまだこの現実を飲み下せていないのだ。
クララを手放さざるを得なかった現実を。
あるいは「ここにいない」妻と子どもたちがいなくなった現実を。
バスに乗ったクララのシーン
ラストはバスに乗ったクララのシーン。
窓から流れる景色を眺めているクララ。
バスは止まってくれない時代と社会であり、クララはその流れに巻き込まれるしかない。
窓の外にあるのは何だろう。
ホロコーストがなくて家族みんな幸せに暮らしている世界だろうか。
クララの唇が二度、きゅ、と力む。
彼女は残された世界で生きていく。
ホロコーストのあと
ナチスのユダヤ人虐殺を生き延びた人たちが、その後は人権を取り戻して幸せに暮らしたかというと、そんなことはない。
ユダヤ人差別はなくならなかったし、ホロコーストがあったという事実は肉体と精神から消えることはない。
ソ連の支配に対してハンガリー国民が蜂起したハンガリー動乱では、市民が殺され難民も出た。
ペレストロイカを経て民主国家になったのは三十年くらい前のこと。
ホロコーストを生き延びた「残された者」は、そういう社会をまた生き延びなければならなかったのだ。