映画『エリザベート1878』――彼女は何も持たずに死んだ
原題は「Corsage」。
オーストリア・ルクセンブルク・ドイツ・フランスの合作で、日本はこの8月25日から公開です。
ハプスブルク帝国が最後の輝きを放っていた19世紀末、「シシィ」の愛称で親しまれ、ヨーロッパ宮廷一の美貌と謳われたオーストリア皇妃エリザベート。1877年のクリスマス・イヴに40歳の誕生日を迎えた彼女は、コルセットをきつく締め、世間のイメージを維持するために奮闘するも、厳格で形式的な公務にますます窮屈さを覚えていく。人生に対する情熱や知識への渇望、若き日々のような刺激を求めて、イングランドやバイエルンを旅し、かつての恋人や古い友人を訪ねる中、誇張された自身のイメージに反抗し、プライドを取り戻すために思いついたある計画とは——。
日本でも宝塚歌劇団、東宝ミュージカルの大人気演目の主人公として広く親しまれているエリザベートの40歳になった1年間に光を当てた本作は、史実に捉われない大胆かつ斬新な美術と音楽、自由奔放な演出で、そんな伝説的皇妃のイメージを大きく覆し、「若さ」「美しさ」という基準によってのみ存在価値を測られてきた彼女の素顔を浮き彫りにする 意欲作である。
わたしの感想と、解釈と、ここがおもしろかったというところを書きます。
ネタバレめっちゃします。
見るのが楽しい精神病院慰問のシーン
残酷な少女(40歳)
エリザベートが精神病院に慰問するシーン1回目。
「前に来たとき私のことを『美しい』と言ってくれたわね」と、ある男性の患者にデメルのすみれの砂糖漬けを施す。
「妖精さんみたい」と自分を讃えた女性患者にすみれの砂糖漬けを渡す。
お付きの人の持っているカゴには同じお菓子がたくさん入ってるのに、渡してあげるのはその二人にだけ。
自分を褒めてくれた人にしか渡さない。
なんという傲慢!
そしてなんと素直なんだろうか。
自分を認めてくれた人にしか渡さないって、慈善活動じゃない。
エリザベートが対価を得る、売り買いだ。
エリザベートの投影
精神病院の慰問シーン2回目。
温浴療法で震える女性患者たちのことを医師が説明してくれる。
「この娘は男狂いで」
「この女は子供を一人亡くしていて、他に三人もいるのに慰められない」
エリザベートは旅行先で男といい雰囲気になったりもしたし、長女を亡くしている。
彼女が見舞った女性らは、エリザベートのあったかもしれない姿。
「何もない私」になりたかったエリザベート
エリザベートはお付きの女性マリー・フェシュテティチが結婚しようとしたとき、認めなかった。
「素の私を愛してくれているのはあなただけ」(うろ覚え)とエリザベートはマリーを傍に置きたい理由を言っていたけど、これ、訳が「素の私」ではなく「何もない私」のほうがいいなあと思った。
このセリフが来るまでにわたしの中で、「エリザベートは何も持ちたくない女性」のイメージができていたから。
エリザベートは皇后ではない自分を見てほしかった。
世間のイメージの通りの皇后ではなく、自分を縛るコルセットを脱いだ、シシィ。
コルセットをしていない、冠を被っていない、皇后でない、馬で駆けるのが好きで、新たな発明品の映写機に興味を持ち、フェンシングで皇帝から一本取った、シシィ。
そんなシシィを愛してくれたのがマリーだったから、マリーを手放せなかった。
「その人」という幻想
結婚させなかったマリーを替え玉にするエリザベート。
替え玉が出た式典を見た娘ヴァレリーは、わざわざ絵を描いて「威厳があってよかった」と言いにくる。
そう、エリザベートのドレスを着て皇后に見えれば、それが実はエリザベートでなくともよい。
エリザベート自身が何かを持っているのではなくて、エリザベートの外側の物が彼女を皇后エリザベートとして成り立たせている。
傲慢で、潔癖で
マリーにダイエットさせ、自分と同じ刺青をさせ、エリザベートは着々と身代わりの準備をする。
自分の持つ世俗的なもの全てをマリーに押しつけて、彼女は自由になる。
船の舳先からふわりと海に飛び込む場面は、美しい。
子どもと大人をどう定義するかにもよるけれど、わたしはエリザベートが子どものまま死んだと思った。
皇后にもならず、母親にもならず、誰かの恋人にもならず、何者にもならないまま。
肉体を持って生きるということは何者かであることだと最近のわたしは考えていて、わたしも何者にもなりたくないと思っていて、だからわたしのできていない選択をしたエリザベートが羨ましく、ずるいと思う。
40歳までその潔癖さを維持できたのもたぶん、彼女が平民ではなく皇族でわりと優雅に暮らせていたからという理由があって、こう、言い方が悪いほうの「貴族」なんだよなあ。
いやもう環境がどうこうじゃなく、もしかしたらこの人はどんな身分に生まれていても同じように生きたのかもしれないけど。
刺されるまでの贖罪
エリザベートの身代わりになったマリーはこの後20年間、刺されて死ぬまで、エリザベートとして生きていかなければならないわけだが、エリザベートは「あなたの献身に考えていることがある」みたいなこと言ってこの身代わりを仕立てた。
エリザベートにとって、マリーにとって、これは褒美になり得たんだろうかってところは疑問というか、マリーは心酔してる人間に近づく、自分がそうなる、という陶酔があったとも考えられるけど、わたしはエリザベートの自死を認める贖罪としてその役割を引き継ぐ、という気持ちのほうが強かったんじゃないかなと思う。
そうあってほしいと思う。
エリザベートの真性は彼女だけのものだから、彼女以外が彼女にはなり得ないから。
わたしは生きているので
肉体から離れた精神は、生きていたころのままではいられない。
何者になることも拒んだエリザベートは、自由になったのだろうか。