映画「DAU.ナターシャ」感想――人間はそこにいるだけで、誰かの悪になっているかもしれない
「生きているだけで悪になるかもしれない」という感想を持った映画、「DAU.ナターシャ」について。
オーディション人数39.2万人、衣装4万着、欧州最大1万2千平米のセット、主要キャスト400人、エキストラ1万人、制作年数15年……
「ソ連全体主義」の社会を完全再現した狂気のプロジェクト !1952年。ソ連の某地にある秘密研究所。
その施設では多くの科学者たちが軍事的な研究を続けていた。
施設に併設された食堂で働くウェイトレスのナターシャはある日、研究所に滞在していたフランス人科学者と肉体関係を結ぶ。言葉も通じないが、惹かれ合う2人。しかし、そこには当局からの厳しい監視の目が光っていた。
ストーリーらしいストーリーを掴みづらいから、観る人を選ぶ。
エンタメ系に慣れてる人だとたぶん観づらい。
人間はそこにいるだけで、誰かの悪になっているかもしれない
ナチ体制下のドイツ国民も、あるいは大東亜戦争時の日本国民も、ひとりひとりを見ればただ一生懸命に生きた人間ではなかったか。
ユダヤ人を密告しなければ、大本営発表を信じていなければ、そうしなければ生きられなかった時代があったのだと、わたしは思う。
1952年、スターリン体制下のソ連がそうだったことを、「DAU.ナターシャ」は見せてくれる。
偶然そこに生きていただけで
舞台は1952年、ソ連の秘密研究所の周辺。
主人公のナターシャは秘密研究所の食堂のウエイトレス。
ある晩のパーティーの後、ナターシャはフランス人研究者とベッドインしてしまう。
これが原因でナターシャは、ソビエト国家保安委員会のアジッポに連行され、拷問を受ける。
この拷問がまた、台本がないのによくこんな拷問思いつくな? というようなものなのだけど、「人間がその環境に置かれたらこういうことが出来るんだ」という証左のようでもあり、アジッポもその時代その社会の中で自分の役割を果たして、そうしないと生きていけなかったのかもしれない。
観てから数か月経って
ここまで書いて、この記事のことを忘れていた。
でもこの映画に関して書きたいことは書いたはず。
その人がどういう人間かって、資質にもよるし環境にもよるし、その時々の気分にもよるし、けっこう可変的なもので、素晴らしいときもあるし愚かなときもある。
自分があの時代のあの社会に生まれていたら、と想像することも多いけど、その時代その社会にのまれて、生きていくためにその時代・社会に適応しようとするだろうなと思う。
今のわたしは日本にいてユニクロとかイオンとかで安いTシャツを買ったりするわけだけど、それも適正な価格で買っているのかというと……。
もしかしたらカンボジアやインドネシアやベトナム、もしくはウィグルから搾取しているかもしれない。
わたしが生きて消費していることが誰かの不幸につながっているかもしれない。
そう考えて、人間でいることが嫌になったりする。
「DAU.ナターシャ」は、可変的な人間の愚かな部分と哀しさを見せてくれる映画でした。